Half Moon ■

 

目覚まし時計が,容赦なく鳴り響く。
俺は手探りで目覚まし時計を殴りつけると,ベッドから抜け出し,
手探りで部屋の照明のスイッチを探した。
照明が点くと,部屋の明るさが目にしみて,思わず目を細める。
カーテンから外を覗くと,まだ街は寝静まっていた。
働き初めて半年経つとはいえ,まだ早番の生活サイクルには慣れない。
体はまだ睡眠を要求している。
俺はなるべく物音をたてないようにバスルームへ行くと,
眠気を払うため,頭から熱いシャワーを浴びた。
この時間では朝食をとろうという気も起こらない。
はっきりしない意識の中でどうにか着替えを済まし,家を出る。
まだ太陽の昇りきらない街は,人の気配も少ない。
見上げると,西の空には沈みかけの半月が所在なげに浮かんでいた。
職場へ向かう俺は知らず知らずのうちに早足になるが,
地下鉄の入り口が見えてきたところで,スピードが落ちる。
地下へと向かう階段は,今日も俺を地の底へと導いているようだ。

 

市街へ向かうラッシュが始まる前に券売機の点検を済ませておくのが,早番の仕事だ。
いつもの手順に従って,すべての機械の点検を終える。
コイツらはよく壊れるくせに,この時間の点検で異常が見つかるのは希なことだった。
今日も特に異常は見つからず,道具を手早く片づけると,
俺は駅務室に戻ろうと道具箱を手にしたその時,
階段を下りてきた女性客が改札の方へ歩いてきた。
俺よりも少し年上のようだ。学生の雰囲気ではない。
胸のあたりまで伸ばした,少しウェーブのかかったツヤのあるブロンドを,
知らず知らずのうちに目で追ってしまう。
「おはようございます」
彼女は俺と目が合うと,微笑みながら挨拶の言葉を口にした。
「・・・お,はようございます。」
俺はようやくのことで挨拶を返すと,妙に恥ずかしい気分になって視線を落とし
制帽を深めに直した。
おそらく俺の顔は,耳まで真っ赤になっていたに違いない。
彼女は何事もなかったように俺とすれ違うと,そのまま改札を通り過ぎ,
ちょうどホームに入って来た電車に乗って行ってしまった。
彼女のトワレの香りだけが,その場に残された。

 

その日から,俺は早番の日が妙に待ち遠しくなった。
早番の日は券売機の点検にわざと時間をかけ,彼女が現れるのを待った。
彼女は日曜以外はほとんど同じ時刻にパリ市街へ向かう電車に乗っていた。
俺が彼女について知っていることは,それがすべてだった。
それでも,最初は交わすことさえ困難だった朝の挨拶も仕事中の最大の楽しみになっていたし,
俺の頭の中で彼女のブロンド長い髪や切れ長の目,翠色の瞳,筋の通った鼻,
すらりと伸びた手足を思い浮かべる時間が占める割合は,日に日に大きくなっていった。

 

ある日,俺は先輩に誘われて,同僚達と職場の近くのパブに出かけた。
俺は実はパブなんてものに行くのは初めての経験で,
すすめられるまま,カウンターに座りビールを飲んだ。
いつの間にか同僚達のグループの一番端に位置していた俺は,
何とか話の輪に加わろうと,カウンタに身を乗り出していたが,
仕事の疲れもあって,一人で飲む体勢になってしまった。
そろそろぬるくなってきたビールをグイっとあおったとき,隣の席の客が俺の方を見た。
「あれ,駅員さん?」
そこには,俺がいつも頭の中で思い浮かべていた姿があった。
「おはようございます 」以外の言葉を彼女の口から聞くのは初めてかもしれない,と俺は思った。
彼女も既にほろ酔いだった様子で,いつも透き通るように白い肌がほんのり赤みを帯びていた。
「駅以外で会うのは初めてですね」
緊張しているのを顔に出さないように,俺は言葉を選んだ。
アルコールのおかげで,普段より饒舌になっていた気がする。
「おひとりなんですか?」
「ええ」
寂しげにそういった彼女は,少し目を伏せた。
その時俺は,彼女の目のまわりが赤く腫れていることに気がついた。
「・・・何かあったんですか?」
おそるおそる訊ねてみた。
「慰めてくれるの?優しいのね」
彼女は目の前のワイングラスに残っていた赤ワインを一気に飲み干し,
バーテンダーに「同じ物を,」と注文した。
「駅員さんも飲む?」
俺は黙って肯いた。
彼女は「2つね」とバーテンダーに付け加えた。
「駅員さんじゃおかしいわね。名前教えてもらってもいい?」
彼女が俺に微笑みかける。
それだけで,隣の彼女に聞こえるんじゃないかというほど俺の心臓は大きな音をたてる。
「フィリップ・・・」
俺は,できるだけ声のトーンを落として,動揺を悟られないように気を配った。
「私はミエット。よろしくね,フィリップ」
彼女の口から俺の名前が発音されると,再び鼓動が速くなる。
ちょうどそこに2杯のグラスワインが運ばれてきた。
「乾杯」
彼女はグラスの足を指で持って,軽く上げた。俺も真似をする。
「仕事でミスでもした?」
俺は,彼女の涙の訳を質問した。
彼女は黙って首を振る。
「じゃ,彼とケンカでも?」
「・・・そんなトコかしら」
2人の間に沈黙が訪れる。
彼女はグラスの半分ほどのワインを一気に飲んだ。
「フィリップ,お友達は放っておいていいの?」
「気にしないで。あなたの方が心配なんだ。」
彼女は驚いたようで,目を大きく見開いた。
口に出してから,俺は少し後悔した。
こんな台詞が出てくるのはアルコールのせいだろうか。
動揺を隠すため,ワインを一口飲んだ。
「俺で良かったら,話を聞くよ」
「ありがとう」
彼女は小さな声で言った。
「でも,ココじゃ話しにくいわ。出ましょうか。
フィリップ,このあと何か予定ある?」
どきん。心臓が大きく動く。
こんなコトで動揺するようでは,彼女にふさわしい男ではない。
俺は動揺を気づかれないように,慎重に返事をした。
「特に何も」
「そう。」
彼女はにっこりと微笑んだ。幾分かムリをしているようにも見えたが。
「じゃ,一晩私につきあってくれる?」
そう言うと,彼女はさっと席を立った。
俺は同僚達に「ペットの餌の時間だから」と適当な嘘をついて,
慌てて彼女の後を追った。

 

彼女は店の入り口が面している通りをゆっくり歩いていた。
その夜は満月で,月の光で彼女の足元には長い影ができていた。
「ミエット」
俺が呼ぶと彼女は立ち止まって振り返った。
月の光を背にしたその姿があまりにも美しくて,
触れたら壊れてしまうんじゃないかと俺は思った。
俺が彼女に追いつくと,彼女は自然に自分の腕を俺の腕に回した。
そのまま俺達は黙ったまま夜の街を歩き,途中の小さな公園で見つけたベンチに並んで腰掛けた。
2人で並んで座ったまま,俺達はとりとめのない話をした。
俺は妙に饒舌になっていて,家のことや少年時代のこと,
変人と呼ばれている同僚のこと,よく壊れる券売機のことなど,
はじめは会話だったのに,やがて俺が一人でしゃべっていた。
会話がとぎれると,そのまま終わってしまいそうな気がした。
「ごめん,なんか俺ばっかりしゃべっちゃて・・・」
「ううん,いいのよ。あなたのまわりって楽しそうね。
私なんて,おしゃべりできるようなことなんかないんだもの。」
「そんな楽しい訳じゃないよ」
俺は仕事のことを思い出して少しだけ憂鬱になった。
「一生モグラみたいに地下で働くのかと思うと,ゾッとする」
「本当は他にやりたいことがあるのね」
彼女は微笑みながら言った。
彼女の知性をたたえた翠の瞳は,何でも見透かしているかのようだ。
「でも・・・」
俺はもごもごと口ごもる。
「あなたがあと少しだけ勇気を持つなら,何にだってなれるはずよ。
・・・あなたがうらやましいわ,フィリップ」
彼女は潤んだ瞳で俺を見上げた。
彼女の腕が俺の頬に伸びる。
彼女の唇が俺の唇をとらえる直前に,俺は彼女を抱きしめた。

 

次の休みの日,俺は一大決心をしてミエットのアパルトメントを訪ねることにした。
あの日以来,駅で彼女と会うことはなかった。
満月の夜,彼女を送って帰ったので,場所は把握していた。
途中,俺は生まれて初めて宝石店に入り,彼女の瞳の色によく似た
小さな小さなエメラルドのついた銀の指輪を買った。
もちろん,彼女にプレゼントするためだ。
俺は手と足が同時に出そうなほど緊張して,彼女の部屋のドアの前に立った。
コンコンと軽く2回,ノックする。
・・・返事がない。
少し時間をおいてもう一度,今度は少し強めにノックする。
が,やはり返事がない。
もう一度,今度はドンドンとドアを叩くと,隣の部屋のドアが開いた。
ミエットよりもう少し年上の,肉付きのいい女性が顔だけ出して,めんどくさそうに言った。
「ミエットなら,おとつい引っ越したわよ」

 

俺は,再び元の退屈な日常に戻った。
いや,以前よりもっとなげやりな態度で,とりあえず与えられた仕事をこなした。
アパルトメントの隣人もそれほど彼女と親しかったわけではないらしく,
引越の理由などは不明のままだった。
やりきれない気持ちで過ごした3日目の夕方,
駅務室の俺のデスクの上に,一通の封筒が置かれていた。
封筒に差出人の名前はなかったが,直感で彼女だとわかった。
その日,勤務時間が終わると,俺は急いで職場をあとにした。
彼女とキスをした,あの公園に向かい,同じベンチに腰を下ろした。
手でびりびりと封を破り,手紙に目を落とす。
手紙はだいたいこんな内容だった。

 

- to be continued ! -

 

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- ambivalence - 

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